「趣味の山歩き ますます深くなる近くの山域」 趣深山 Copyright(c) 2002-2011
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「私の経験からいって、むやみに歩くだけの人の山登りは、長続きはしないように思えます。」
『登山読本』 横山厚夫 1973 山と渓谷社
山登りを続けていくのには 乗り越えていかなければならない 大変大きな障害が いくつもあります。
若い頃は あまり問題としていなかったことでも 年を経るごとに 様々な障害が 立ちふさがって 出てきます。
病気 健康 体力 家庭 結婚 学業 就職 仕事 転勤 転居 退職 経済的な問題 社会的な問題 人間関係 山の指導者 山仲間 など 色々な障害があります。
まず
健康 体力が 大切な山登りの条件として 上げられたりします。
健康維持のためにと 適度な運動 として 山へ行く人もいますが、 体調を崩して 山へ行けなくなるとか、年齢的にも 体力的にも もう 激しい登山は出来なくなるとか、いう のは よくあることです。
膝の故障とかの 山登りが原因で 健康を害した とかいうのも 中にはあります。
健康管理には気を付けなくてはいけません。
しかし癌を克服しながら、300名山を巡った方もいますし(平さん)、 凍傷で 手や足の指を 切り落としても なお 難しい山へ 立ち向かう登山家も いることです。エベレストに登頂した、アメリカ人の全盲登山家エリク・ヴァイエンマイヤー氏の例もあります。
実際 足に 大きな障害があり 足を引きずりながら 苦労して歩きながら、 全国の山を 巡り歩いている人に、 山の中で お会いしたことがあります。
難しい病気もありますが、多少の健康障害など、山行のスタイルなど工夫していけば、身体的な障害は、それなりに克服できるのでしょう。
同じこと 取り巻く家庭環境、社会的環境、経済的な環境などの 諸々の障害も本人次第で何とかなることが多いのでしょう。
第二次大戦中の社会的状況の厳しいさなかでも、日本アルプスの山々に、万難排して登られて 素晴らしい記録を残した方々 もいらっしゃるぐらいですから。
意志があれば 道は開ける とかいう ことば がありますが、
山登りを続けるうえでの 最大障害になるのは やはり 本人の山に対する 意欲 情熱ではないかと思います。
はじめの頃は 何をやっても 何処の山に入っても すべてが新鮮で 目新しく 感動の連続です。
面白くて仕方がないと いう状況が 何年か 続いたあと、 やがて ガイドブックに出てくる、山やルートを一応 登り尽くし、一通りの めぼしい 山を登ってしまったとして 、次に自分の目標がないとか さて何処へいこうか と迷うようになります。
著名山ブームの昨今では○○名山 あといくつ のうちは熱病のように山へ取り憑かれますが、
さて いざ ○○名山完登となってしまったら 急に目標を失い さまようようなものです。
なんとなく 以前からの惰性で 山へ行くという時期もあるでしょう。
意欲のや情熱の無い状態では それも やがて 長続きしません。
その状態では 無理に 次に 次にと 目新しさ求めて どこか遠方とか 変わったルートからの山へ いってみても、
どことなく 山へ行くだけの マンネリ化した状態で、 初期のような感動はなく なんとなく 行っている感じを あじわうばかりで
山へ行く前も 山へいった後も 虚脱状態の 無感動状態が続いてしまい やがて 次第に 山に対する情熱も 完全に冷めていきます。
こうした 状態から もがいて もがいて やっと脱出して 又 自分で 新たな 自分なりの山登りを見いだす人もいますが
そのまま 山の情熱が 冷めて てしまう人もいます。
人間関係だけで 山へいっていたのか とか 深く考えたり 迷ったりもします。
山岳会など 山に関わるグループ など で仲間と一緒 に山行く場合は、自分にとって、いい刺激となって、レヴェルアップできるようなら、面白いものですが、やがて 人間関係の縛りなどで とても鬱陶しくも なってくるのかもしれません。
実際 山でも 人間社会の延長線上で 人間関係などの縛りがあるのです。
昨今では 山岳団体などの 組織の縛りに 拘束されるのを嫌う、気まま登山の傾向が 強いと、思われます。
未組織登山者とは 各種の 山岳団体側からの発想で この言葉は 登山を無理矢理に型に押し込めるようで 好きにはなれません。
本来登山とは、極めて個人的な行動なのですから。
単独行は そう言う意味での 煩わしさから 逃れた 面と、自分の山を 発見するきっかけを作ってくれるかもしれません。
一緒にパーティーを組んで 連れだって 山へいっていた 山の仲間達も みんな 取り巻く 各種障害などや人間関係で、同様な状態で苦しむのです。
新人が 次々に育っていって 新陳代謝していく 会も なかには ありますが、多くの 山に関わるグループや山の会やなど 栄枯盛衰のサイクルがあります。
やがて 次の 山の仲間との 遭遇とか 再会 復活など があるかもしれませんが、所詮 いずれは みんな 様々な事情で 散り散りになっていきます。
惰性とか 無感動とか が続いてくると、どこの どんな山へいっても どのように 山へいっても面白くないのです
この様なとき 一番 厄介なのは いかに山へ行くモチベーションを持ち続けられるかでした。
私なども、動機付けとして 山岳雑誌など 何種類も 毎月号定期購読し 沢山の山岳書を読みあさった 時期もありましたが、
それだけでは 自分の山は 発見できないのでした。
人それぞれに 山の接し方があり 百人いれば百念あり、百人が百山行すれば 百の楽しみ方があるのが、理解できたのはずっと後になってのことでした。
やがて 自分を取り巻く 諸環境が 厳しくなって 山へ行くのにも 時間的に かなり苦しくなってきました。
時間的に きつければ 苦し紛れに 低山などと 今まで見向きもしなかった 日帰りできる比較的 近場の山へ通うようになりました。
そこで HPトップページ冒頭に書いたような 山の深みを 垣間見るようになるのでした。
それ以来 私の 山行スタイルは また 新しい 道を歩みだしました。
自分の山を 発見し 、自分なりの山行スタイルを確立すること これが 山登りを長く続けられるかはどうかであり、 また山登りにとって一番大事なことなんだと 深く感じる次第です。
『 私事になるが 私は富山駅前で登山用具の専門店を営み山に関する情報の発信地として登山相談もおこなっている。
その際、前著の山はもうすべて登り尽くした、他に山を紹介してくれとの声を耳にする。
山は「とやま山歩き」に掲載されているものを一通り登って「もうすべて登った」つぎにやることが見当たらないなどというものではない。
それを一つのステップとして、自分なりの課題をみつけ出し取り組んでこそ、楽しくやり甲斐も湧こうというもの。山は季節によって表情が変わる。季節を変え、ルートを変え、方法を変えることで一つの山でも多くのことを経験できる。
「とやま山歩き」を一通りなぞることも一つの課題にはなるが、あっと言う間に尽きてしまうだろう。自分にとってできるだけ大きなテーマを課すことで山登りの奥深い面白さが広がる。
(中略)
私は、年間60日ぐらいの山行を重ねて45年になる。それでも未知の分野・体験できない領域が果てしない。だからこそ、生涯汲めども尽きぬ永遠のテーマを与えてくれる山登りと取り組んで行くことが出来る。登山という趣味を得たことに幸せを感じている。
佐伯郁夫 』
「とやま山ガイド 10ジャンル100コース」
佐伯郁夫・佐伯邦夫 1996年 株式会社シー・エー・ピー
2003年9月15日 第1版
2006年3月22日 更新
http://www.lnt.org/
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